断腸亭料理日記2018

鴻上尚史著「不死身の特攻兵 軍神はなぜ
上官に反抗したか」その6



鴻上尚史著「不死身の特攻兵  軍神はなぜ上官に反抗したか」、

今日こそ最後になるか。 (講談社現代新書)



日本人は一神教的なのか、多神教的なのか、という考察であった。

昨日、戦国期の浄土真宗、門徒の過激な動きを書いた。
宗教戦争といってよく、多分に一神教的である。

もう一つ。もう少し時代が下るが、江戸に入って、
島原の乱というのがある。
天草四郎という者を旗頭に、キリシタンの反乱、という
イメージもあるかもれしぬ。

だがこれはまあ、当時弾圧されたキリスト教がある程度よりどころと
されたが、全体とすれば圧政、重税に対する、農民一揆、あるいは、
戦国が終わり大量に出た不満浪人のはけ口、そんな理解が
アカデミアでは一般的で、宗教戦争という位置付けはされていない
ようである。

昨日みた、浄土真宗、本願寺の門徒達の戦国大名への反抗は
一般的には、一向宗徒の一揆なので一向一揆と呼ばれている。
15世紀の終わり頃から16世紀の終わり頃まで、100年ほどの間
近畿、北陸、東海地方でのことである。

日本史上で組織だった宗教が関係する大規模な反乱は
これだけといってよいのか。
応仁の乱から続く、長い戦乱の時代というものが背景に
あったのだと考えられようか。
下剋上があたり前、ある種の無政府状態。
自分や家族、家は自分達で守らねばならないと皆が考えていた
時代である。日本人のモラル感、「世間」感も変化している、
と考えるのが正しいかもしれない。

時代によっては、一神教的メンタルを持っていた頃もあり
また、あるいは、日本人の中に場合によってはこういうメンタルが
出てくる可能性を秘めているといってよい、ということ
かもしれない。

日本人が他民族に征服されていないというのメンタル文化的には、
どういうことであったか、以前に私自身、この日記でも
考えてみたことがあった。
http://www.dancyotei.com/2016/sept/onbashira5.html

この時に考えたのは、征服されていないので、
文化的に途切れていないということ。
それで、縄文からの神々も、弥生の神々も、その後の仏教、
その他、陰陽道、儒教、、、と層をなすように、神感が重なって
いったのではないかということである。

前のものを否定せずに取り込み、積み重なった。
必然的に、神の解釈、世界観としては、多神教的になっていった。
こういう風に考えたのである。

そこでもう一つだけ。地震や風水害の多い日本列島だから
多神教になったという、鴻上先生の論である。
「たった一つの神が、こんなに試練を与えるという
考え方は受け入れられなかった」のでいくつもの神がある
と考える多神教になったといっている。

自然崇拝、アニミズムの原初的な文化では、世界中で
日本と同じような多神教の世界観の例は少なくない。
日本の場合は、前記のようにその後、他文化により途切れさせられる
ことがなく、そのまま残ったと考えるのが自然なのではないか
と思うのである。

さて。
この多神教的なメンタルと「世間」を大切にする
メンタルとの関係である。
逆にいうと一神教だと「世間」を大切にしないのか、
ということにもなる。

これもやっぱりしっくりこないのである。
「世間」を大切にすることと、一神教、多神教は関係がない
のではないか、と今、思っているのである。
例えば、一向宗の門徒であっても、門徒の間では
「世間」は大事にしていたかもしれない。
両立してもおかしくはない。
正確にいえば、わからない。
当時の門徒の手紙であるとか、文献を見てみたくなる。

長々書いてきてしまったが、
そろそろまとめに入らねばならない。

いろいろ考えてきて、今、仮説ではあるがこの「世間」を
大切にするメンタルというのは、江戸期以降、ひょっと
すると、明治以降に全国に広まったメンタルではなかろうか、
と考えているのである。意外に古くないのではないかと。

江戸期の制度としては五人組あたりから。
また、思想としては幕府の学問となった朱子学。

まず五人組。
五人組というのは、町でも村でも5人(家)ごとに
単位を作らせ、互いに年貢を納める連帯責任を負わせたもの。
元来はキリシタンの禁教のために、監視し合わせたのが元ではあるが
段々に支配の仕組みになっていったものである。
江戸期、この連帯責任は、制度として確立し徹底されていた。
先に書いたようにそれでも飢饉などで年貢が納められず、
逃げてしまう、という例もあったのだが、いずれにしても、
村名主が取りまとめ人として互いに監視し、責任を
持ち合うというシステムとして機能をしていたと考えて
よいと思われる。これは都市である江戸の町々でも監視しあう
という仕組みは同様に機能していた。

身分が武士であればどうであろうか。
「世間」を大切にするメンタルはもっと極端であったと
考える。藩なり幕府に所属し、家と石高は世襲。
200年間、同僚も世襲。役目も大きくは変わらない。
これはもうそれこそ「世間」は所与のもの以外なにものでもなかった
はずである。

これが、戦乱のない安定した世の中が200年以上
続き、武士はもちろん、百姓町人のメンタルにも
定着していったのではなかろうか。

そして、それが、明治になりあたり前であった武士のメンタルによって
さらに増幅され、教育等で全国的に水準合わせされるようなことになり、
国民の共有するメンタルになっていった。

そして、もう一つの朱子学のこと。
実は、朱子学は先に朝鮮半島に入り、李氏朝鮮の国家の学問に
なっているのである。
そして、日本では江戸幕府初期、林羅山という朱子学者がいたのだが、
家康、秀忠、家光、家綱の四代に仕え、朱子学は幕府の官学になっている。
また、林家の子孫は代々、儒学者の幕臣として大学頭を名乗っている。

朱子学というのは実のところ私なんぞにはちゃんとした
説明はできない。(勉強しておきますという感じ。)
ものの本によれば、上下の秩序を大事にし、幕藩体制、士農工商の
身分制度を正当化する、思想的バックグラウンドになっている、
という。(また、朱子学は幕末の勤王討幕思想にも皮肉なことに
つながっているよう。)

これが今まで書いてきた「世間」にあたるものの起源では
なかろうか。「世間」というのは結局その集団なり、組織の
秩序ということになろう。
これで、韓国が日本以上に「世間」を大切にすることの
説明もつく。
もちろん、仮説である。

長々書いてきて、考察の大半はなんであったのか、と思われる
かもしれぬ。鴻上先生の説が意外に私の興味のフィールでであったので、
はまってしまった、という感じであろうか。考えていておもしろかった
のではある。


お付き合いいただけた方々、感謝、である。

 

 

 

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