断腸亭料理日記2024

宗像大社〜日本古代史 その3

4484号

引き続き、福岡の世界遺産宗像大社周辺の
日本古代史をみている。

宗像大社、沖ノ島の国宝8万点。
当時の最高の宝物を捧げて祈っていたわけだが、
これが始まった年代はある程度特定されている。
いつかというと、4世紀に入った頃。
300年代初期か。卑弥呼の4〜50年程後。

沖ノ島は、書いたように縄文時代からの祈りの場
であったと考えられているわけだが、ある意味、急に
大規模な祈りの場になっている。これはいったい
どういうことなのか。

それ以前というのは「朝鮮半島系の土器や日本各地の
土器も出土するので、もともとは日朝の日常的な
相互往来の場だったことがわかる。寄港地や祭祀場として
利用されていたかもしれない。」(「海の向こうから見た
倭国」高田寛太 2017)とみられているよう。

今は、神官以外は上陸すらできないが、弥生期の日本と
朝鮮半島系土器があるということは、住んでいる人も
あったわけで、倭人だけではなく、朝鮮半島の人もいた。
また、当時も祭祀も行われていた可能性も指摘されてはいる。

この大規模祭祀が始まったのには大きな時代の変化が
あったようなのだが、まずそれ以前の北部九州について
みてみたい。

弥生時代一貫して北部九州というのは、地理的に近いため
当然、朝鮮半島への主たる窓口の役割を担ってきた。
そしてその中心は博多湾であったことがわかっている。

私は知らなかった。博多の方は周知のことなのか。
福岡市早良区西新6丁目の県立修猷館高校付近にある
西新町遺跡という。
当時の港の跡。漁労を生業とし、優れた航海技術を持つ「海民」
がいた。そして列島各地のクニの人々が集まり、海民が朝鮮半島との
交易、交流を担っていたという。
実際には、交易港はここだけではなく西日本の海村各地であった
ようだが、この博多湾が最大であったよう。
博多は古くから、天然の良港であったわけである。

ではこの朝鮮半島側の相手は誰か。

任那(みまな)という国(?)の名を私は日本史の授業で
習った。同世代以上の方はご同様であろう。

今、言わないらしい。これ、正直知らなった。

百済、新羅、任那、というのがワンセットであった。
倭の出先機関?任那の日本府なんという言葉まで習った

これも日本史の過去の遺物であったわけである。

今は、伽耶(かや)という言葉になっている。

任那は日本書紀に使われている言葉で、現地の地名である
ことは間違いないようだが、地域の名前としては今は伽耶が
使われており、また、内容も見直されいる。

この時期、日本列島の弥生時代終わりから古墳時代に掛けて
朝鮮半島南部の伽耶という地域で、いくつかの王国があった。
ここが博多湾からの交易、交流の相手であったことがわかっている。

双方で双方の土器も出土しているようで、双方の人々が
双方に住んでいたことも裏付けられる。

伽耶は倭の占領地などではなく、親しい交易の相手国。
これが正解。

昨日書いたように、日本列島の倭人は武器を始め、
農耕などにも必要だが、当時まだ作れなかった鉄他、半島、
中国の進んだ様々なものを手に入れたかったわけである。

交易の主体は直接は博多の海民だが、その先には大和盆地の
倭王権がおり、連携した動きであったようである。

また、倭側のメリットは鉄の入手だが、伽耶側も鉄を生産して
交易を支配し成長につなげるメリットがあったと考えられている。

だが、これが4世紀に入ると博多湾の「西新町遺跡は急速に衰退し」
(前出高田)てしまい「それと連動するように玄界灘に浮かぶ
孤島の沖ノ島で、海上交通の安全を祈願する祭祀が執りおこな
われるように」(同)なったというのである。それも繰り返し。
そして、当時倭王権にとって最も貴重であった卑弥呼時代に
魏からもらった百枚の三角縁神獣鏡なども奉献されたのである。
(これは国内での複製品とも。ただやっぱり、この文脈、
卑弥呼の邪馬台国と倭王権は同一であることを示唆している。)

「沖ノ島は博多湾を経由せずに伽耶との直接交渉をめざした
倭王権によって、航海安全の祭祀場として重視されたので
あろう。」(前同)
現在、大和盆地の倭王権の最初の拠点と目されている
大古墳からも三角縁神獣鏡は出土しているのも裏付け。

倭側の主体は博多湾の海民から倭王権直接の接触に変化する
のだが、伽耶側は変わっていない。

さて、相手側のこの時代の朝鮮半島というものもみて
おかなければいけない。この時期は激動の様相を呈していた。

前記のように卑弥呼の頃「魏志倭人伝」にあるように中国に
魏があり、その半島支配のための魏の出先機関、半島北部の
帯方郡に卑弥呼は使いを出し、これが「魏志倭人伝」に
書かれているわけである。これが魏の弱体化により晋に
代わり、さらに313年、北部で興った、高句麗に帯方郡は
滅ぼされる。そして高句麗は、南下。
南部には、百済、新羅、伽耶。このせめぎ合いが始まった。

こうした状況のなかで、伽耶(金官加耶)と倭王権は直接交渉を
するようになり、また新羅、百済ともに倭との関係を求めてきた。
高句麗との対抗上、連携したかったと考えられている。(新羅は
高句麗に従属し安定を図る戦略で倭とは対立関係にあったと「日本
書紀」にも書かれているが、実際には少なからず近しい関係は
維持されていたようである。(前同))

倭王権は朝鮮半島情勢に、望んでか、図らずもか、巻き込まれて
いくのである。おそらく、巻き込まれるメリットを期待し、
積極的に関わっていったのではなかろうか。これは私見。

倭王権は書いたように、伽耶など朝鮮半島と直接の接触を
するようになったわけだが、博多湾発の交易は衰えたが
海村それぞれ、朝鮮とのいわゆる民間交流は継続していた
ようである。
ここまで、4世紀後半まで。

こうした背景の中に沖ノ島の祭祀があった、というわけである。

さて、この後も朝鮮半島は戦いを繰り返し、倭国は最終的に
百済救援のため、663年白村江の戦いで新羅、唐連合軍と戦い、
敗北、半島の百済による統一。
これが天智天皇の時代。ここまで、か。

ちょうど、古墳時代。最初に述べた古墳時代に大量の東アジア人の
移住、混血は、こういった朝鮮半島との関わりとは無縁ではないのかも
しれないが、学問上はまだ明らかにはされていない。

ともあれ。宗像大社から日本古代史のお勉強、ここまでにしよう。

大社境内から出る際、再び大きな石の鳥居をくぐると
気が付いた。鳥居に彫られている寄進者の名前。私は見るように
しているのである。年代は昭和一桁であったか。飯塚市 麻生太吉
とある。麻生元総理の曽祖父。明治から昭和初期、九州の炭鉱王。
寄進者の名前は太吉氏一人。今の金額でどのくらいであろうか。
億にはなろうか。なるほど。


金製指輪
7号遺跡出土
国宝
5〜6世紀

世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
デジタルアーカイブ

 

 

 

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